元々私の妻という人は、兄である皇帝の手がついた女性で、長らく皇后の侍女をしていた人だった。
妻が仕えていた皇后は大変美しい容姿をしていたが、欲深く嫉妬深い、一言で言ってしまえば心はこの上なく醜い人だった。 対して私の妻となった女性は、容姿こそ十人並みだったが心は大変美しい人だった。 皇帝はおそらく彼女の人柄に惹かれ、結果皇后の目から逃れて逢瀬を重ねていたのだろう。 だが、ささやかな幸せな時間は長くは続かず、ついに皇后の知るところとなってしまった。──このままでは最愛の人の生命が危うい。 そう考えたのだろうか、皇帝は青い顔をして私に相談してきたのである。 清廉な皇帝と言われている兄も、やはり人の子だったのか、と私は妙に納得した。 まず私は、その侍女を正式に寵姫にしてはどうか、と提案した。 だが、皇帝は首を縦には振らなかった。 無理もない、皇后は長らくこの国の実権を握っている宰相に連なる家柄の出身だったからだ。 そして、人一倍嫉妬深い皇后は、自分以外に皇帝の寵愛を受ける存在を許すとは到底思えなかった。さてどうするか。
次の提案を考えている私に、皇帝はおもむろにこんなことを口にした。 どうか、この侍女をお前の妻にしてはくれないか、と。 ひと度自分の手から離れれば、皇后もよもや良からぬ気を起こすことはないだろう、そう言うのである。 私は深々とため息をついた。 これはもはや、相談ではなく命令である。無論私に拒否権はなかった。 最初から皇帝は、最愛の人を唯一の肉親である私に託すつもりだったのだ。 考えること、しばし。 私は深々と頭を下げ、皇帝に向かいこう言った。「賜りました。ですが、その代わり一つだけ私の願いを叶えていただけますでしょうか?」 何事かと首を傾げる皇帝の目を、私は真っ直ぐに見据えた。「今現在、私には皇位継承権がございます。ですが今後陛下にお世継ぎがお生まれになれば、皇后陛下の憎しみその日から、私は変わった。しかも、人として悪い方に。 日に何度も、演者の有名無名に関わらず、演劇や音楽の公演に通いつめるた。 そればかりではなく、何人もの売れない芸術家の後援者(パトロン)となり、金をそれこそ惜しげもなくつぎ込んだ。 そして、屋敷にいるときには昼夜を問わず酒をあおり、昼夜が逆転するような生活を送った。 議席を有していた御前議会には、何かと理由をつけ三度に一度は欠席をするようになり、そのうちめっきり足が遠のき、いつしかまったく出席しなくなった。 さすがに私の突然の変化を奇妙に思ったのだろう、ある日兄たる皇帝は近侍を伴うこともなくただ一人、お忍びで私の屋敷を訪れた。 これはおそらく、急激に変化した私の真意を包み隠さず話してほしいと思ったからなのだろう。 屋敷に迎え入れられた皇帝は、私の顔を見るなり声を荒らげこう言った。──一体、どういうつもりだ、と。 そこで、私はなんの説明もせず、皇帝を息子の部屋へと連れて行った。 訳もわからず息子の部屋にやってきた皇帝に、私は寝台を指し示す。 赤子用の小さな寝台の中にいるその子を見て、皇帝が息をのむのがわかった。 それほどまでに、私の『息子』として育てられている男児は、皇帝にそれこそ瓜ふたつだったのである。 寝台の柵を握りしめ、ようやく立っているような状態の兄に、私は静かに告げた。「私は、彼女……妻と約束したのです。その子を命にかえても守る、と」 私の声は、さほど大きくはなかった。 しかし、皇帝は心底驚いたように振り返り私の顔を見る。 無理もない、我が妻は元々兄の寵愛を受けた人で、兄からすれば体よく押し付けたという意識があったのだろうから。 その視線から逃れるように目を伏せると、私は更に続けた。「恐れながら、私があなたと血をわけた弟である以上、私が今までのように振る舞えば、私もこの子もいずれいわれなき罪を着せられて、抹殺されてしまうでしょう」 誰に、とはあえて口にはしなかったが
妻は禁忌とされている自害をしたので、本来であれば正式な葬儀を執り行うことはできない。 だが、それでは色々と良からぬ噂が立つであろうから、その点は不本意ながら兄たる皇帝の力を借りて隠蔽した。 公爵夫人のものとしてはあまりにも簡素な葬儀が執り行われた後、私が最初にしたことは妻の親戚筋の一家を住み込みの家人として取り立てることだった。 というのも、この一家は元々男爵の位を有していたのだが、先代の当主が投資に失敗し無一文に近い状態となり、領地と爵位を売ってしまったのだという。 そんな一家に妻は侍女として皇后に仕え始めてからずっと仕送りを続けていたらしい。 ちょうど私も第二皇子の身分から公爵として独立し、皇宮を出て屋敷を構えていたので、それなりの人手を必要としていたということもある。 なので、万一気にさわらなければお願いできないかと申し出たところ、先方からはすぐに快諾する旨の返答があった。 私とかつて私の守役を勤めていた執事、そして数人の料理人と私の乳母だった女性しかいなかった屋敷は、一気に賑やかになり、明るい雰囲気に包まれた。 その一方で母親を喪った息子は、日々成長していった。 巻き毛の赤茶色の髪に、青緑色の瞳。 何も知らない家人達は、本当に私そっくりのかわいらしいご令息だと、褒めそやし目を細めたが、私の見立ては違った。 細かい顔の造形は、当然のことながら本当の父親である兄……皇帝に似ていた。 妻と皇帝との仲を薄々ながら感じ取っていた皇后の目に留まれば一体どうなるかは、火を見るよりも明らかだ。 皇帝の命令であるからというのもあるが、妻との約束を果たすためにも、この子の命を皇后から護らねばならない。 果たしてどうすればいいのか。 日夜悩んだ結果、私はある残酷とも言える決断を下した。 この子は、一生この屋敷からは出さない。 家人以外の目には触れさせない。 人目に触れなければ、この子が皇帝に似ていると知るものはいない。 安直ではあるが、これが最良の策だと私は思った。 何も知らず寝台の上で安らかな寝息を立て
元々私の妻という人は、兄である皇帝の手がついた女性で、長らく皇后の侍女をしていた人だった。 妻が仕えていた皇后は大変美しい容姿をしていたが、欲深く嫉妬深い、一言で言ってしまえば心はこの上なく醜い人だった。 対して私の妻となった女性は、容姿こそ十人並みだったが心は大変美しい人だった。 皇帝はおそらく彼女の人柄に惹かれ、結果皇后の目から逃れて逢瀬を重ねていたのだろう。 だが、ささやかな幸せな時間は長くは続かず、ついに皇后の知るところとなってしまった。──このままでは最愛の人の生命が危うい。 そう考えたのだろうか、皇帝は青い顔をして私に相談してきたのである。 清廉な皇帝と言われている兄も、やはり人の子だったのか、と私は妙に納得した。 まず私は、その侍女を正式に寵姫にしてはどうか、と提案した。 だが、皇帝は首を縦には振らなかった。 無理もない、皇后は長らくこの国の実権を握っている宰相に連なる家柄の出身だったからだ。 そして、人一倍嫉妬深い皇后は、自分以外に皇帝の寵愛を受ける存在を許すとは到底思えなかった。 さてどうするか。 次の提案を考えている私に、皇帝はおもむろにこんなことを口にした。 どうか、この侍女をお前の妻にしてはくれないか、と。 ひと度自分の手から離れれば、皇后もよもや良からぬ気を起こすことはないだろう、そう言うのである。 私は深々とため息をついた。 これはもはや、相談ではなく命令である。無論私に拒否権はなかった。 最初から皇帝は、最愛の人を唯一の肉親である私に託すつもりだったのだ。 考えること、しばし。 私は深々と頭を下げ、皇帝に向かいこう言った。「賜りました。ですが、その代わり一つだけ私の願いを叶えていただけますでしょうか?」 何事かと首を傾げる皇帝の目を、私は真っ直ぐに見据えた。「今現在、私には皇位継承権がございます。ですが今後陛下にお世継ぎがお生まれになれば、皇后陛下の憎しみ
「孤児……と、あの御仁は確かに言ったのかな?」 黒玻璃の瞳を向けられたヘラは、短いとび色の髪を揺らしながらうなずく。 「はい。師団長殿にそう告げられたとか。それともう一つ、妙なことを」 「妙なこと?」 「ルウツに親を殺された、と……」 そうか、とつぶやきながらロンドベルトは目を閉じる。 脳裏に浮かぶのは他でもなく、一面血に染まる家族団欒の間。 床に倒れ伏す男女と突き立てられた短剣。 そして、無数の剣を向けられ、微動だにできずに立ち尽くす少年の姿だった。 今も消えることがない鮮明な画像。 それを記憶の底に押しとどめ、ロンドベルトは問うた。 「それで、あの御仁の様態は?」 「かなり回復し、司祭館の書庫で一日の大半を過ごしているとのことですが」 なるほど、と言ってロンドベルトはおもむろに立ち上がる。 どちらへ、と尋ねる副官に向かい彼はわずかに笑って見せた。 「平癒のお祝いでもと。お迎えしたにも関わらず挨拶の一つもなくては、無礼この上ない」 「ですが、師団長殿からの許可はまだ……」 「お顔を拝見しに行くだけだ。尋問しようという訳ではない。問題は無いだろう」 不安げなヘラにもう一度笑って見せてから、ロンドベルトは漆黒のマントを翻し司祭館へと向かった。 ※ 司祭館に足を一歩踏み入れるなり、ロンドベルトはすれ違った若い神官にお客人はどこかと尋ねる。 すると、やや怯えたような口調で屋上へ上っていくのを見かけたとの言葉が返ってきた。 軽く片手を上げて謝意を示すと、ロンドベルトは階段へと向かい、昇ることしばし。 視界が開けた先には、丘一面を埋め尽くす墓碑の群れをみつめる敵国の神官の姿があった。 真っ白な墓碑の群れは、初めて見る者には奇妙な威圧感を与えていることだろう。 この地に赴いた当初抱いた感情を思い出しながら、ロンドベルトはセピアの髪を風に揺らす敵国の神官に向けて語りかけた。 「戦で家族を失った者が、せめて死後は聖地へとの願いを込めてこの地に墓を建てるのです。驚かれましたか? 『無紋の勇者』殿」 その声に応じるかのようにシエル、否、シーリアスはゆっくりと振り返った。 顔は無表情を保っているが、藍色の瞳には言い難い光が宿っている。
暖かな光が優しく自分を包み込んでいる。 死後の世界という物が存在するとしたら、このような所なのだろうか。 そんなことをぼんやりと考えながら、シエルは目を開いた。 そこは、暖炉のある小さな部屋だった。 一体何が起きたのか理解できず、彼は自分が置かれた状況をまじまじと見つめた。 肩口の矢傷には真っ白な包帯がきっちりと巻かれ、わずかに薬草の香りがする。 身にまとっていたのは真新しい夜着で、横たわっているのは柔らかな寝台。 無論身体は清められている。 窓には緋色の分厚いカーテンが引かれ、燭台のロウソクが室内を明るく照らしている。 慌てて半身を起こそうとした時だった。 聞き慣れぬ老人の声が、前触れもなく耳に飛び込んでくる。「気が付いたかの? まだ動かれんほうが良い。傷口が開くからの」 視線を転じると、横たえられている寝台の脇に一人の老神官が座っていた。 醸し出す雰囲気から察するに、徳のある位の高い神官なのだろう。 顔をのぞき込んでくる慈悲深い眼差しに、シエルはおとなしく起きあがるのを止めた。「お前様も、神官とな? ここがどこだかわかるかの?」 ゆっくりとシエルはかぶりを振る。 やれやれと言うように老神官は続ける。「ここはアレンタ。エドナ最果ての地だ。死神が治める死者の街と言えばわかるかの?」「アレンタ……? では、聖地は?」「すぐそこじゃ。お前様は、巡礼者かの?」 答えようとした時、扉を叩く音が室内に響く。 ややあって扉が開き、現れたのは他でもなく、命の価値に重い軽いは無いと言っていたあの神官騎士だった。「気付かれたのですか、アルトール殿? 本当に良かった」 心底安心したようなアルバート。 が、シエルはさらに首をひねった。「失礼ながら何故俺の名を……? 一体これは&hellip
司祭館を出てすぐ目前に見える大きな石造りの建物が、通称『死神の居城』だった。 すでに顔見知りになっている衛兵は、いつになく険しい表情をしているアルバートの様子に、わずかに首を傾げながらも中へ通した。 あとは勝手知ったるなんとやらである。 ずんずんと歩を進めると、アルバートは突き当たりの一際大きな扉の前で足を止める。 その扉を叩こうとした時、内側からお入りください、と言う声が聞こえてきた。『千里眼』は何でもお見通し、ということか。 やれやれと溜め息をついてから、アルバートは重い扉を押し開く。 果たしてそこにはロンドベルトともう一人、ヘラの姿があった。 これは軍事機密の会議中だったのかもしれない。 そう判断したアルバートは深々と頭を下げた。「お取り込みのところ、失礼いたしました。改めます」「その必要はありません。私も今から報告を受けるところでした。二度手間にならないから丁度良い」 戻ってきたのはアルバートの想定外の言葉だった。 一体これは、どういう意味なのだろうか。 疑問に思いながらもアルバートは扉を閉め、一歩室内に足を踏み入れると改めてロンドベルトとヘラに向けて一礼した。 それを受けるロンドベルトの顔には、わずかに笑みが浮かんでいる。「頭数が揃ったところで副官殿、報告を聞こうか。あのお客人はどのような素性かな?」 どうやら自分ははめられたのかもしれない。 そう気づいたものの、いまさらどうすることもできない。 アルバートはこれみよがしに大きく息をつくと、発言者である美しい副官を見つめる。 ヘラは承知しました、とうなずくと、手にしていた書類をロンドベルトの前に置いた。 これは一体、と問いかけてくるようなロンドベルトに向かい、ヘラは簡潔に答えた。「このルウツ皇国発行の通行許可証によると、名前はシエル・アルトール。ルウツ中央管区所属の修士となっています。膨大な量の書写を持っていたので、聖地巡礼の途中だったのは間違いないと思われます」